作　やーすけ・梅太郎
ハードボイルドソーセージ小説　筑豊残侠伝【ちろりん村人間模様】　こんちゃんの章”２”

安部公房の小説に「名刺」というものがあった。　ある朝、名刺が勝手に一人歩きし、誰の目にも主人公の姿が映らない。　皆が名刺に向かって話しかけるのだ。　会社人間であった主人公は、自分の存在の本質を見てしまうといった話だったと思う。　名刺を印鑑に置き換えてもいい話だ。　それほどに大きな存在である印鑑を、３文判で済ませるなど、几帳面なこんちゃんには耐え難いことだった。　──『印鑑』──　たどり着いた店の、ハゲかけた看板のペンキが、この店の歴史を物語っている。　（掘り出し物がありそうだ……）　そうは思ったが、古物商のような店構えに何となく腰が引ける。　怖々と入り口の戸に手を当て、慎重に力を込めた。　引き違い戸は意外な軽さで横に滑った。　　つづく　

店の中は薄暗く、カビ臭い空気がこんちゃんの鼻腔に流れ込む。　このまま帰ってしまおうかと思ったが、それも失礼かと几帳面なこんちゃんは思い直し、とりあえず来店の挨拶だけは済ませておこうと奥に向かって声をかけた。　「ごめんください」　店内の壁には、印鑑の文字によって運勢が変わるといった意味の事が書いてあり、その横には、なんと読むのか皆目見当もつかない、崩し漢字の印影を、こと細かく説明してあるポスターがあった。　こぢんまりしたショーウインドウには、犀角とか象牙などの見るからに高級品の見本が並んでいる。　どうやら、こんちゃんが捜している『３文判より、ちょっと高めの印鑑』は、この店では扱っていそうにない。　（来店の挨拶は済ませたことだし、帰っても失礼じゃないだろう）　と、出口に足を向けたとき「はいーっ」と、まるで剣道場の道場主のような野太い声が奥から聞こえた。　　つづく

半分禿げ上がった５０がらみのその男は、見るからに占い師といった雰囲気を発していた。　表情が乏しく、眉根に刻まれた深い皺が、彼の思考の形を顕していた。　「いらっしゃいませ」　低く抑揚のない声──、こんちゃんはいきなり動けなくなってしまった。　呪縛とはこういった状態をいうのだろうか。　外に向かっていた足が、男に引きつけられるように再び店内に向けられ、１歩…２歩…３歩…と歩を進ませる。　「何をお探しで？」　煙草のヤニがこびりつく黄色い歯が、ニタリと笑った。　「い、いんかん……」「えっ？」「印鑑です」「はいはい、印鑑ですね」気安い雰囲気を見せようとする男に、かえって不気味さを感じる。　こんちゃんはこのとき男の術中に、ズブズブとはまっていく自分を感じていた。　　つづく　

「ひとくちに印鑑と言ってもネエ──」　たっぷりと間をおいた男の語り口は、この世界で生きた永さを感じさせるほどに洗練されていた。　「印鑑はネエ、その人の運命を顕してるのだよ」　そう言ってる間に数種類の印鑑が目の前に並んだ。　どれも太くて立派な代物だ。　こんちゃんは思った。（このままでは、なんだか高い物を買わされそうだ）男の話が滑らかな口調で調子づく。　「あの！」　男の話の腰を強引に折った。　少し不愉快そうな表情を見せたが「なんですか？」と、商売用の笑顔を浮かべ、男はこんちゃんの言葉を待った。　「認め印に使うので、そんなにいいものじゃなくてもいいです」　一瞬の間の後「ああ、認めね。うちには３文判はないよ」　並べた印鑑を片付けながら男が言う。　（気分を悪くしたのか……）　客であるはずのこんちゃんが、なぜだか恐縮するのであった。　　つづく

「なんだ！　その態度は」　と言えない性格のこんちゃんは、男の機嫌を損ねたことを謝った。　「いや、すみません。あの、３文判じゃない、認め印が欲しくて捜してるんですけど、いいものありませんかね」　印鑑を片づける手をゆるめ、男は愛想笑いを浮かべて言った。　「それなら、いいのがあるよ。お客さんの名前は？」　「コンドーです」　「ああ、それならおあつらえ向きのがある」　そう言いながら取り出したのは、黒塗りの印鑑で、さっきの物よりはだいぶ小ぶりだが、なかなか立派な物だった。　文字を見た。　なんと彫ってあるのか分からない。　「ほら、押してみて」　男が朱肉と紙を差し出した。　こんちゃんは黒塗りのその印鑑を握りしめ、朱を付けると、差し出された紙に向かって、力一杯押しつけた。　これがこんちゃんの人生で最初の、記念すべき、ひと押しだった。　　つづく

ズシッとくる重さが心地いいその印鑑が、紙に描いた印影は、さすがに立派なものだった。　文字はどう読んでいいのか分からないほど崩してある。　それがまた偉そうな感じを醸し出している。　（なんだか──）本当に出世しそうな印鑑だ。　「どう？」　「いいっすね」　「そうやろ？　私は自分がいいと思う物しか扱わないんだよ」　男はすっかり上機嫌になり、この印影が顕す運勢の良さをあれこれアピールする。　その説明を訊いていうるちに、この印鑑を持たなければ、不幸に見舞われそうな気持ちになってきた。　「じゃあ、これ買います」　「そう、うんうん、それがいい」　値段は３文判の２０倍。　それでも、運勢が良くなるのだから安い買い物だと、こんちゃんは本気で思うのだった。　　つづく

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