作　やーすけ・梅太郎
ハードボイルドソーセージ小説　筑豊残侠伝【ちろりん村人間模様】　こんちゃんの章”３”

（やはり、社会人ともなると印鑑には、これぐらいのお金はかけるのがジョウシキやろ）　黒光りする印鑑を指で擦りながら、心が満たされる自分を感じていた。　（早く契約書に、この太くて黒い──）立派な印鑑を、思いっきり押したい。　その瞬間を思い浮かべるだけで血が騒いだ。　先端に視線を移し『コンドー』の赤い黒い文字を見つめた。　まだ乾ききっていない朱肉の赤がヌメヌメと濡れ、彫り込まれた『コンドー』の溝をも艶めかしく朱が浮き上がらせていた。　頬を上気させ、印鑑を見つめるこんちゃんに男が言った。　「それほどの印鑑は、その値段では普通手にはいらんよ。お客さん運がいい」と、そこまで言うと、やおら赤い物を取り出した。　印鑑ケースだ。　「それほどの印鑑、まさか、裸のままというわけにはいかんやろ？」　　　つづく　

（そうか、印鑑ケースがいる……）どんな銘刀も抜き身で持っておく訳にはいかない。　鞘や柄などの拵え次第で、見栄えが変わってくるもんだ。　いざ契約というその時になって、アタッシュケースから裸の印鑑を取り出したのでは、いくら立派な印鑑でも恰好がつかないではないか。　やはりケースも相応の物にしなければ、完璧とはいえない。　男が出した赤いケースを手に取り、ゆっくりと開いてみた。　赤いベルベットで作られた内装は素晴らしく、毛足が輝いている。　添えられた朱肉も、品のいい大きさと質感だ。　蓋を閉じた。　蝶つがいに仕込まれたバネが心地いい程度に効き、閉じた蓋が小気味いい音を立てた。　「いいですね」　「そうやろ？　その印鑑にあつらえたようなケースやろ？　お客さん、運がいいよ。普通ここまで揃わんよ。こんな安い値段じゃないよ」　「そうですか」　男の話に納得しながら、こんちゃんはもう一度ケースに目を落とした。　　つづく　

男の説明に納得はしながらも、どこか違和感を感じた。　（なにかがしっくり来ない）　その違和感の原因を、こんちゃんは考えていた。　もう一度、ケースを開け、黒塗りの印鑑を入れてみた。　赤いベルベットに黒い照りがよく似合った。　そのままケースを閉じた。　（わかった。違和感の原因は合皮の赤だ）　几帳面なこんちゃんは「赤は女色」という、子供のことの概念を未だぬぐい去ることはできないでいた。　「すみません」　「なに？」　怪訝そうに男が返す。　こんちゃんが断るとでも思ったらしい。　「これの黒はないですか」　男は一度ケースに落とした視線をこんちゃんに向け、凝視した。　「黒ね、う〜ん……　あるけど、黒は……ちょっと高いよ」　言いにくそうな言い方が、こんちゃんの期待感をくすぐった。　（そうか、黒は稀少な物なんだ）　「ちょっと見せてください」　と身を乗り出し、言った──。　　つづく

几帳面な男こんちゃんは、太くて黒光りする印鑑と、黒い合皮張りの印鑑ケースを買ってちろりん村へ戻ってきた。　戻る道すがら『もしかしたら、乗せられてしまったのでは……』だんだん頭が冷めてくるにつれ、そんな不安がムクムクと湧き上がってきた。　あの男の話を訊いている内に、この印鑑を手に入れなければ、運は向いてこないような気になっていた。　しかし、実際使用するのは契約書に使う認め印で、そんな場合、こんな立派な印影の印鑑を使わないのではないだろうか。　（マインドコントロール──？）　こういう事態をそう呼ぶのだろうか。　ドアを開ける足取りが重い。　「どうやった？」　そんな気安い質問が、今となっては胸に突き刺さるのであった。　　つづく　

こんちゃんが重い足を引きずりながらドアを開けた時、カウンターにはＵミキが座っていた。　軽快な突っ込みを持ち味とするUミキが、この場に居合わせたのがこんちゃんの運の尽きであった。　「いいのがあったね？」　私の質問に「ええ、まあ、とりあえず買ってきましたけど……」自信なげに答えるこんちゃんは、それを見せようともしないでカウンターに座った。　「なん？　何買ってきたん？」　こんちゃんの曖昧な態度に、Ｕミキの面白いことを嗅ぎつける天性の嗅覚が働いた。　「いや、大したもんじゃ──」ありませんと、言いかけたこんちゃんの言葉に被せて、私が答えた。　「認め印たい。３文判でよかとバッテンが、ちっと気の利いた印鑑捜してくるとか言うきクサ」　「ああ、認めね。３文判でよかやん」　「そやろ？　バッテンが始めて仕事に使う印鑑ですから、少し良いのをとか言うてクサ──」　「ああん、なんでんいいとて。認めやら──」　こういった会話が飛び交っている間の、こんちゃんの心境は、如何ばかりであったろうかと、今、振り返って思う私であった。　　つづく　　　

こんちゃんはこの危機的状況に対し、どういうリアクションを取ればいいのか思案していた。　『変な男に脅されて買わされた──』『催眠術を使う怪しい男にしてやられた──』など何パターンかを考えているうち、どんどん状況が悪くなってきた。　「勿体つけんで、はよ見せてん。なんね？　見せられんげなん印鑑、買わされたっちゃなかろうね」　「そげそげ、黒くて太いヤツ。鼻の穴にピッタリなヤツやろ？　鼻の穴に突っ込んだまま、村祭りを歌うとやろ？　ワハハハ……」　『スネークマンショー』のコントをＵミキという男は、すべて諳んじる事ができる。　このタイミングで印鑑を出せば、確実に銀行爆破予告のコントが始まるだろう。　なにしろ本当に黒くて太い印鑑を買ってしまったのだから。　こんちゃんは思案の末、奇策に出た。　色形から意識を逸らす作戦だ。　　つづく　

【0】もどる