誘導を買って出た男子は慣れた仕草で、両の掌を上に招くサインを繰り返す。　「センパイ、いいですよ。オーライ、オーライ……」　それを合図に１階と２階の窓からも、挨拶の声が掛かる。　「センパーイ、失礼しま〜す……」　それはまるで、花道を退場するスターのような雰囲気だった。　これ以上に演出しなくても、十二分に注目を集めているのだが、Ｍボチャンの心にわずかな欲が湧いた。　それは車を運転している者にはよくある衝動で、Ｍボチャンだけの特異な気持ちではない。　ひと言で言うと『カッコイイところを見せたい』ということだ。　ここで言うカッコイイところとは、華麗なるドライビングテクニックのことである。　Ｍボチャンのイメージは瞬時に膨れあがった。　まず窓を開け、身体を乗り出す。　これによって全員に運転している姿を見せることが出来る。　次にエンジンをふかし、回転数をやや高めに上げる。　これによって動き出す瞬間の緊張感を、見る者に与えることが出来る。　ハンドルを回し、そのままクラッチを繋ぎ、すぐに切る。　これによって切れの良い、バックの方向転換が可能になる。　あとはギアをローに入れ、クラクションを一回鳴らして、引っ張り気味に走り去る。　どうであろう、さりげなさの中に大人を感じさせるではないか。　　つづく

Ｍボチャンの大脳前頭葉部分で、一瞬閃いたささやかな欲望を実行すること事態、決して無理なことではなかった。　だた、不慣れな運転と、全員の視線が一点に集中しているプレッシャーという二つの要素が、Ｍボチャンのミスを誘発した。　キーを捻るとシェルモーターが回り、サニークーペのエンジンが目を覚ました。　それを待っていたかのように「センパーイ、失礼しまーす」と声が飛び交う。　クラッチを切り、ギアをバックに入れた。　窓から身を乗り出し「オイ、いいか？」と誘導を買って出た後輩に向かって確認する。　「いいですよ、センパイ。オーライ、オーライ……」　アクセルを断続的に踏み込み、回転数をやや高めに上げた。　”グオン　グオン……”　バックする時に掛かるＧに備え、身体に緊張を与える。　完璧だった。　すべてはイメージ通り事が運んでいた。　そしてついに、キメの瞬間が来る。　回転数の最高部分で、クラッチをいきなり繋いだ。　こうすることによって車体は勢いよくバックする──はずであった。　　つづく

慣性の法則に耐える姿勢を取っていたＭボチャンに、予期せぬ衝撃と目眩が襲った。　一瞬、後ろへ向けた頭部が、後方へ持っていかれ、次にフロントへと身体ごと投げ出された。　何が起こったのか把握できぬまま、Ｍボチャンは女子の悲鳴を聞いた。　車を誘導していた男子の顔が、間延びして見えた。　轟音が耳の奥で、繰り返し繰り返し鳴り響く。　振り返り見た目の前には校舎の壁が立ちはだかり、その壁に向かってサニークーペが、口吻でもしているような形でボンネットをめくり上げ、めり込んでいた。　ギアに目を落とし、愕然とした。　バックに入れたつもりのギアが、何故かローに入っていたのである。　　つづく　

実はこの時期のサニークーペは、軽量化を図るためだろうか、ボディーの鉄板が薄くできていたように思う。　サイドミラーなどに、ちょっと力を込めて手を乗せただけで、回りがベコっとへこんでしまったりするのだ。　そんな要因も加わって、盛大に変形してしまったサニーの回りに、部員達が集まってきた。　「センパーイ、大丈夫ですか？　ワー、こりゃ、すごい。　思いっきりぶつかっとーばい。　なんちゅうたちゃ、校舎が揺れましたもん。　グオン、グオン、グオン、ドカーン、グラグラで、思いっきりグシャグシャですもん。　なんか夢みたいですね、センパイ」　茫然自失のＭボチャンに向かって、様々な感想を述べる無邪気な部員達に罪はない。　こうして華々しいデビューを飾った日産サニークーペは、一発屋の車として見事に散っていったのである。　　つづく

この時受けたショックから立ち直るためだったのだろうか、いきなり髪型を変えてきた。　それはかなり変わった髪型で、行きつけの床屋で写真を示し、このアーチストと同じ髪型にしてくれと頼んだらしい。　男が美容室に行かない時代だったことが、Ｍボチャンのサラサラ髪に、取り返しのつかないダメージを与えることになる。　Ｍボチャンのイメージでは、緩やかなウェーブのアフロといった感じの髪型になる予定だった。　行きつけの床屋ではピシャッと筋目を通した、ヒチサンに分けるのが主流で、Ｍボチャンの言う複雑なパーマをかける客など来るはずもなかった。　せいぜいパンチパーマかメッシュ止まりだったろう。　だがこの時のＭボチャンの申し出に、店主の創作意欲が、ムクムクと首をもたげたようなのである。　　つづく　

（パンチパーマの、緩い感じでやればいいやろう）　床屋の店主は、漠然とそう考えたに違いない。　そして、こうも考えたに違いない。　（写真で見る限り、根元へ向かっていくほど、パーマのかかりが弱くなるようだ。　そこがポイントかな）と──　だが、店主の几帳面な性格が災いして、根元までキッチリとパーマがかかってしまった。　この時、Ｍボチャンが鏡に映る自分の頭を見た時（まーまーかな）と思ったという。　それなりの髪型になっていたのだろう。　しかし、このような中途半端な髪型は、几帳面な店主の職人魂が許さなかった。　（このまま帰したのでは、自分が許せない）　客の要望より、わずかに店主の理容師としてのこだわりが上回ったことが、Ｍボチャンの髪に過酷な試練を与えることになった。　　つづく