店主は少し緩めのアフロを両手で撫でると、おもむろにブラシとドライやを取り出した。　ドライヤーの熱風がＭボチャンの髪を、容赦なく舐める。　そうしながら店主は、アフロ状のパーマに憎しみでもあるかのように、強引に横に向かって引っ張り伸ばしていく。　ドライヤーの爆音──　タンパク質を焼く匂い──　強引にブラシを通す不気味な音が、無表情を装いながらも激痛に耐えるＭボチャンを襲う。　（いったい何をしようというのか）　Ｍボチャンは完成した作品を、自らの手で惜しげもなく破壊しようとしている店主に、燃える芸術家の魂を見た。　やがて店主はデップをたっぷりと手に取り、薙ぎ倒したアフロに塗りつけた。　これこそ『芸術は爆発』であった。　『スクラップ　アンド　ビルド』であった。　つづく　

アフロをヒチサンに分け、真っ白いラインを描く──　それは無秩序の中に創造された、秩序の象徴──　太陽に焼かれることなく、毛髪の下で眠ったように存在し続けた、処女のごとき白き頭皮が、一本の白いラインを形作った瞬間、店主の脳のどこかに潜んでいたスイッチがONになるのだった。　脊髄に微弱な電流が流れ、快感が下半身に向かって走る。　この瞬間が店主の福音であった。　この瞬間のために、日々バリカンとハサミを動かし続けているのだ。　店主の労働の根幹は、すべて、この白き無垢なラインの創造にあるのだった。　　　つづく

アフロに走る一本の白き直線は、未開のジャングルを切り開き、文明の動脈を通したハイウエイのようだった。　完成時には傍若無人に絡み合っていたＭボチャンのアフロは、店主の努力によって、ゆったりと波打つ一風変わったヒチサン分けに変えられた。　たっぷりと付けられたデップは艶やかに照り輝き、櫛を通した跡は、痕跡も鮮やかに大海原の秩序を見せていた。　さらにはその先端は、このヘアースタイルの正体がアフロであることを顕示するかのように、チリチリの状態で側頭部に揺れている。　それはまるでチアガールのボンボンのようであった。　しかし、アフロをここまで強制的に変形させることは、地球的規模の自然破壊に匹敵した。　そして、やがてやってくるそのしっぺ返しは、破壊者の床屋の店主にではなく、Ｍボチャンが受けなければならなかった。　　つづく

やがてそれは、髪質に顕れた。　やや癖毛ではあったがサラサラ髪のジャニーズ系だった髪が、すべてのキューティクルがそげ落ちたかのようにバサつき、一本一本が複雑に絡まり合っていった。　それはまるでＭボチャンの頭上に巣くい、あらぬ方向へ触手を伸ばす悪性の病原菌のようであった。　それでもＭボチャンのライフワークである、ＯＢ訪問は途切れることがなかった。　この時のＭボチャンの髪型について、目撃者の話が伝わっている。　「部室前の廊下の窓ガラスはですね、下から２段目までが磨りガラスが入れられていて、その上が透明なんですよ。　だから普通は人が歩いていても、陰しか見えないんですがね、Ｍボセンパイだけは分かりましたね。　磨りガラスの上の透明な部分から、モサモサした髪が上下して見えましたから、『Ｍボセンパイがみえたな』と、心の準備が出来て、快く迎える事が出来ましたね。　ただ女子が笑顔で迎え入れていたとＭボセンパイは思われているけど、本当は笑ってただけという事実は、忍びなくて冗談でも言えませんでしたよ」　　つづく

もうひとつの証言は、ＫＨ高地学部部員ではなく、Ｋ女子高校に通う女の子が目撃した話だ。　「Ｋ女子高校の下校はですね、駅まで歩道に行列を作って歩いていくくらい混むんですよ。　私が目撃したのは軽トラックが道の途中でＵターンしようとして、立ち往生していた時です。　女子高校生の行列を意識したのか、かなり慌ててましたね。　何度も切り返しているそのトラックの運転手は、行列から見て真っ正面でしたから、その表情は丸見えでした。　それだけでも可笑しいのに、最後は塀に後ろをぶっつけたんです。　その時、モサモサのライオンみたいな髪の毛が、グラングランと激しく揺れたんですよ。　もう堪えられなくて、大笑いしました。　えっ？　ええ、２、３０人は見たんじゃないですか。　みんな笑ってましたもん」　何故、この男がＭボチャンだと特定できたかというと、この話を女子高校生から訊いている私の傍に、ちょうどＭボチャンが居合わせていたのだ。　消え入るような声で「それ、俺……」と言ったＭボチャンを指さし、「ああ！　この人！　この人！」と彼女は証言し、そして又笑い出した。　　　つづく

それから間もなくして、Ｍボチャンが髪を切った。　かなりに短髪だ。　切ってしまえば元通りになると、高をくくっていたようだ。　しばらくすれば刈り込んだ髪も伸び、またわずかにウェーブのかかったサラサラ髪を真ん中に分けて、ＯＢ訪問が出来るようになる。　そうすれば、あの特殊な髪型も『なるほど、あれはＭボセンパイの過激なジョークだったのか』とささやかな語り草になるだろう。　──石は坂を転げ落ちても転がり登る事はないし、川の流れは絶えなくとも決して同じ水ではない。　すべての事象は、いっときたりとも同じ状態ではなく、常に変化している。　ましてや生物である人であれば尚更だ。　過酷な試練を与えてしまったＭボチャンの頭皮は、ミクロの世界で劇的に変化していた。　『覆水　盆に返らず』　　つづく