彼女の名前はマユミといった。　女に免疫のないアンドンがどのような行動に出るか、それが心配だったが、意外にも落ち着きのある態度と、田川弁の軽いジョークが和んだ空気を作り出していた。　彼女と会った次の日、アンドンに事の次第を話した。　「連れていっちくりぃ」　破顔して手を合わせ、すぐにも行こうと急かす。　昨日の今日というのも、なんだかガツガツしているようで気乗りがしなかったが、これまでのアンドンの情熱に免じて、彼女が勤める美容室のドアを開けたのだ。　商売柄というのか、話し上手な彼女は聞き上手でもあった。　私はこれまで、これほど饒舌なアンドンを見たことがなかった。　　つづく　

「次の講義があるぞ。行こう」　小一時間ほどアンドンの純朴なジョークを聞いていたが、相手は仕事中だ。　引くときには引かねばならない。　「ええ？　何の講義かい？」　真っ正直なアンドンには、社会人が使う本音と建て前が理解できないらしい。　私はマユミが壁に掛かった時計に、目を走らせた瞬間を見逃さなかった。　客でもない男とベラベラ話して、給料を貰うわけにはいかない。　何かそれなりに仕事があるということだろう。　「もう帰るん？」　すかさずこんな言葉が出てくるところが、呼吸を心得た社会人だ。　「うん、また来る」　そう言ってから、不満顔のアンドンを促し、外へ出た。　「講義やらあったかのう……。まあいいや、また明日来よ」　と独りごちたアンドンの弛んだ頬には、ホの字とレの字とタの文字がクッキリ、あぶり出ていた。　　つづく　　

２週間が過ぎた。　その間、マユミの美容室へ通い詰めたアンドンが、かなり高めのテンションで私に言う。　「あのたい。　マユミに付き合うちくりぃち、言うたんたい。　そしたらたい。　彼氏がおるち言うんきゃ。　俺はそん男と別れちくりぃち言うて、散々頼んだんたい。　そしたらようやく、『よかよ』ち言うてくれたんたい。　ただそん前に、そん男と話を付けてくれっち言うんきゃ。　どげしょう──」　口ベタのアンドンの話を訊きながら、（なんか、ずるい女──）という気がした。　おそらくマユミと彼氏の間はあまりうまくいっていず、かなり末期的状態なのだろう。　それも、彼氏が距離を置き始めている状態だと想像できる。　マユミの方にはまだ気持ちが残っていて、なんとか彼氏を自分の方へ引き戻したいと思っているのじゃないだろうか。　そのダシにアンドンが使われようとしているのだ。　マユミの思惑通り、元の鞘に収まれば大成功で、もし仮にうまく事が運ばなくても、アンドンという新しい彼氏は用意されているというわけだ。　　つづく　

だが、マユミの女心を考えた時、そこまで冷徹な計算があったともいえない。　彼女がアンドンに付けた条件とは、彼氏との別れをどうしても受け入れることが出来ないでいるマユミの、自らの背中を押すための苦肉の策であったと観ることも出来る。　新しい恋の相手を見せることで、後戻りできない状況を作るということだ。　その時、わずかながらでも彼氏の心に嫉妬の火が点り、自分の苦しみの何割かでも味合わせてやることが出来れば──　という単純な女心が働いたとしても、それを『ずるい』と切って捨てるのは酷かもしれない。　ここはひとつ、アンドンの男を見せる場面と考えた方が良さそうだ。　　つづく　　

マユミの彼氏は、やはり美容師仲間で北九州にいるという。　「男に遇うて、どげん言うたらいいんかい？」　「そうやなあ……、まず舐められんごとせないかん」　相手は、どんな人間かも分からない社会人だ。　気を呑まれて、おどおどした態度を見せたら、どんな因縁を吹っかけられるか知れたもんじゃない。　「舐められんて……？」　「まず、男を呼ぶ時には『アンタ』と呼ぶ。　それから『女はもう俺の物』という感じで、彼女をマユミと呼び捨てにする──」　「うん……」　「マユミと別れちゃらんな？　ち、ドスを効かせたあと、相手の目をじっと見る──」　「……それで？」　「おしまい」　「ええっ？　そのあとはどげなるんかい」　「そのあとは、相手の出方次第たい」　「喧嘩になったら、どげするんかい」　「心配するな。俺が隠れて見よっちゃる」　事の展開を予測できない以上、そう言わざるを得ない。　ここで『助けてやる』と言わなかったのは、私の自己保身の気持ちがそうさせたことは否定しない。　　つづく