時間にして数分の沈黙だった。　小さな空間で男が二人、５、６分間も押し黙っていると、空気が澱んで息苦しくなる。　タバコの煙を追い出すために、半分開けていた窓を、ガタつくレバーを回転させ、全開させた。　猥雑な街のノイズが、ストレートに飛び込む。　「電話番号は？……」　私が短く言うと、アンドンが胸ポケットから紙切れを出して見せた。　「男が出てきたら、ゆっくりと歩いて近づけ。　こっちの傍に歩いて来させろ。　何かあったら助けに行っちゃる」　「何かちゃ？　……何かい？」　悪いジョークでも訊いたような顔で、アンドンが私を見た。　私は笑わなかった。　アンドンの緊張した口元に、怯えの影が差した。　「非常事態たい──」　とだけ答えた。　それ以上は言わずもがなだ。　　つづく

「非常事態……かい？」　「喧嘩になったら、１対２やから心配すんな」　私はあえて不測の事態とは言わなかった。　予測を超えた事態が起きる可能性として、男が助っ人を頼んでいる場合だ。　アンドンも私を連れてここまで来ているのだから、男も店のスタッフを引き連れてきてもおかしくないのだ。　あるいは近くの喫茶店などに、腕っ節の強い助っ人を待機させているということも十分に考えられる。　今もこうして店の様子を窺っている我々を、どこかで観察しているかもしれない。　私はそれらしい人物がいないか、辺りをゆっくりと見回した。　電柱の影──　不自然に立っている人影──　特に怪しい気配は感じられない。　「よし！　作戦開始しようぜ」　アンドンもいつまでもこうしているワケにはいかないと思ったのだろう、勢いよくドアを開け、スクッと立ち上がった。　　つづく　

１０メートル先にある公衆電話がある。　ちょうど店との中間点だ。　アンドンが受話器を取り、硬貨を入れ、ダイヤルを回した。　ダイヤル一回し一回しに決意を込めているらしく、見ている私の指先にも力がこもる。　やがて相手が出たらしく、グッと背筋を伸ばし何言か話すと受話器を置いた。　その状態でドアを見つめている。　ドアがゆっくりと開き、白衣姿の小柄な男が出てきた。　左右に視線を流し、電話の主を捜すふうな動作をしたあと、公衆電話の傍のアンドンに視線を止めた。　一旦動きが止まったが、男は意外なほどの早足で歩き出した。　アンドンがヨロヨロと２、３歩動く間に、かなりの距離を近づいて来た。　おそらく、ドアの内側から店のスタッフが見ているのではないか。　みっともないところは見せられないという、男の見栄が感じ取れる。　強いて言えばそれはまるで、チキンレースを見ているようだった。　　つづく

「チッ」　思わず舌打ちした私はホンダＺのドアを開け、中央に男を挟みアンドンと対角方向に位置に向かって歩き出した。　すっかり気を呑まれてしまったらしく、アンドンは顔をひきつらせて棒立ちしている。　このままでは男に言いたい放題言われて、追い返されてしまうに違いない。　なんとかアンドンの視界に入って、落ち着かせなければならない。　男にも（もしかしたら、助っ人かもしれない）という程度の威圧感を与えたい。　無関係かも知れないが２人の男から、挟み撃ちのような位置関係の所に立たれている──、それだけで一方的な出方はできないはずだ。　案の定、男の足取りが緩くなった。　牽制するような視線をチラチラと向ける。　アンドンの視界にも私の姿が映ったらしく、青ざめていた顔が、怒気を含んだように赤く染まっていく。　ようやく私の歩調に合わせて、ゆっくりと歩く余裕を取り戻したようだ。　　つづく

私は直接男を見ないように、視界の縁で姿を追った。　半袖の白衣から見える腕は、白く細い。　指先の器用さを感じさせる体型だ。　長身なアンドンに比べ、かなり小柄だった。　男との距離がさらに縮まる。　用心したのか男は私に背中を見せない位置、店のドアを背中にしたままの形をとった。　アンドンと対峙する男の横顔が見えた。　青白く華奢に見えるが、意志の強さを感じさせる顔立ちだ。　（あれ？　どこかで見た顔……）　直感が訴えた。　（知ってる男だ）　記憶のファイルを開ける作業に集中する。　（どこだったか……）　ふと、男が理容室の息子であることを思い出した。　その事に思い当たった瞬間、私は男の正体が誰であるかを理解した。　　つづく