唸りを上げて加速したホンダZが、峠の坂道を駆け登る。　白煙が渦を巻きながら、長々と後方へ伸びていく。　それはさながら、山の斜面を這い登る白龍ようであった。　あるいはそれは、断末魔の咆吼をあげ、のたうち回るキングギドラの首のようでもあった。　直線からカーブに差し掛かった。　失速を始めたホンダZを鞭打つが如く、アンドンは巧みなアクセルワークとギアのコンビネーションを繰り返す。　ローで引っ張り、素早くセカンドへ──　失速、（クソ！　ローだ！　よし！　セコだ！　まだまだぁー！　よっしゃー、ローだぁ！──）　……気が付くとアンドンは、蟻地獄から這い上がろうとする一匹の毒虫と化していた。　加速すれどもほとんど登ることができない、この巨大な毒虫は、モウモウと排煙を吹き上げ、地球環境を汚染するばかりの存在となった。　　つづく

アンドンは決断を迫られていた。　（引き返すか……、だがこのままでは格好が付かない）　『名誉の撤退』にこだわり、敗北した戦争は歴史上いくらでもある。　特にこの場合『勇気ある撤退』で再起をかけるというのが、最善であった。　（そうすれば……、そうすればマユミとも……）　悔やんでも悔やみきれない、一瞬の判断ミスだった。　決断をつけられぬまま、アンドンがアクセルを踏み込み続ける。　そのとき辺りに霧が漂い始めた。　いや違う！　ボンネットから薄い煙が吹いているのだ。　「きゃー！　なんか煙が出よるよ。　大丈夫なと？」　しかし、ここでアクセルを戻せば、ホンダZ は急勾配の坂を後ろ向きに走り出してしまう。　（どこかでUターンをしなければ！）　ハンドルにしがみつく両手は、汗で濡れていた。　　つづく　　　

不滅の名車ホンダZは、アンドンの思いを叶えるべく、最後の力を振り絞る──　コーナーを抜けた後、息を吹き返したように加速を始めた。　それはまるで自らの終局の扉を押し開けるかのようであった……　すでに限界を超えていたZの心臓は、さらに激しくシリンダー内のピストンを動かした。　（なんのために走るのか……　誰のために走るのか……　今朝のガソリン、おいしゅうございました。　今朝の洗車、気持ちようございました。　私は命じられた通りに、走り回ってまいりました。　添田の山道、楽しゅうございました。　英彦山への登山、面白うございました。　ですが、もう疲れはてて、走ることが出来そうにありません。　こんな不出来な私を、これまで可愛がってくださいました事、アンドン様に感謝致します。　先立つ不幸をお許しください……）　　つづく　

フロントガラスがいきなり霧吹き状に曇った。　「きゃー！」　限界を超えたホンダＺが、煙と共に吹き上げたオイルであった。　Ｚはついにその鼓動を止め、静かに路肩に停車した。　焼けたオイルの臭いが一面に漂い、高温のマフラーからは金属が冷え始める時に発する、特有の音が鳴っていた。　アンドンが呆然と佇む目の前で、オイル混じりの煙を吐き続けるホンダＺ……　テンカウントのゴングを打つように、マフラーが鳴り続けている。　アンドンと共に青春の真っただ中を疾風の如く駆け抜けた、不滅の名車ホンダＺ……　オイルを吐き、真っ白に燃え尽きたその姿は、近藤勇らと共に池田屋に斬り込み、乱闘の最中吐血した天然理心流の使い手、沖田総司その人を彷彿とさせる、哀しくも壮絶な最後であった。　　つづく　

上手くいっている時には、すべてが上手くいく。　だが一度歯車が狂い出すと、何をやっても裏目に出てしまう──　人生訓を語る時、必ず出てくる話だ。これまで順調だったアンドンの運勢は、ホンダＺの吐血から一気に凋落を始めた。　最大のダメージ……　それはマユミがいきなり「アタシ、大阪で修行する」と言って、有無も言わさずアンドンの元を去ってしまったことだ。　女が男を見限る時、信じられないほどの冷徹さで行動を起こす。　それも、いきなり──　いや、いきなりと感じるのは、女心に鈍感、あるいは無知な男から見た見解であって、正確に状況を把握できていない。　ここで理解不能な女心に振り回された経験があるという、男性読者諸君に言う。　時に別れを決断した女は、かよわき被害者の衣を纏い、別れを切り出すまでの過程で、女友達などに散々諸君の不満を垂れ流し、その傷を広げることで生まれる、ある種の恍惚感を貪り食ったはずなのですぞぉ。　　つづく