……少し感情移入が過ぎた。　アンドンの恋の破局をつらつらと考えてみるに、この恋は最初から最後までマユミのペースで推移した。　結果的にアンドンにとって通り過ぎた夏の恋のような、セピア色の世界が似合う青春の一コマが残ったに過ぎない。　そしてアンドンには恋を失う激痛が待っていた。　マユミがアンドンの元から去る、きっかけを作ってしまったホンダＺは見事、復活を果たした。　だが、アンドンは病み上がりのＺを労るどころか、「このシャバ憎がー！」という態度で扱うようになった。　　つづく　　　

コーナーに突っ込む０．７５秒前にダブルクラッチを踏み、シフトダウン！　タイヤと軋ませ、雄叫びを上げるＺのエンジン音！　前輪駆動独特のドリフトから、コーナーの抜け際にアクセルを全開させる。　Ｚの車体は前輪に引っ張られ、滑るテールを立て直す。　そのまま直線道路をかっ飛んでいく──　胸にポッカリと穴が開いた空虚感を、アンドンは初めて味わっていた。　後方へ飛んでいく風景が、白いノイズが入ったモノクロ映画のようだ。　交通量が全くない添田の一本道を、孤独なアンドンを乗せたホンダＺが走る。　山間に残響していくのはホンダＺ、ただ一台のエンジン音のみだ。　　つづく　

孤高のエンジン音は高速回転の雄叫びをあげる。　アンドンが苛立ちにまかせ、さらに踏み込んだ。　（もっとだ！　もっとだ！　──）　視界が絞られ、眼球運動が小さくなる。　快感が脳髄から尾てい骨へ広がっていく。　スピードジャンキー──　ステアリングからグリップに伝わる、荒々しい振動。　今にも跳ね上がりそうになる車体を押さえ込む、征服という恍惚感。　スピードが与える麻薬は、アンドンの精神を静かに蝕んでいく。　アクセルを踏み込めば、死の淵へもっと近づく事ができるのだ。　死と生との間を振幅するスリルは、堪らない高揚感をアンドンに与えた。　スピードジャンキー──　なんぴとにも妨げることの出来ない世界を、打ち砕くことが出来るものはただひとつ、『死』のみであった。　　つづく　

だが天はアンドンを召し上げることはしなかった。　まだこの地上に必要な男であった。　のちに歴史の大舞台へと躍り出てくるはずのこの人物を、日本の将来を考えた時、失ってしまうような事態だけは、どうしても避けなければならない。　天は『アンドンの翼を折る』ことを決断する。　その日、いつのも田舎道をホンダＺでかっ飛ぶアンドンの視界に、不審な人影が映った。　男だ。　いきなり路肩から飛び出すと、Ｚの行く手を遮ろうとしている。　手には５０センチ程度の棒状の物をぶら下げ、威嚇するように左右にゆっくりと振っていた。　　つづく　　　　　　

その男の正体を一目で見破ったアンドンは、全身が冷や水を浴びたように冷たくなっていくのを感じた。　（なしかい！　なし、こげん田舎道でネズミ取りをせな、いかんのかい）　逃げるか──　これまで小さな悪行を繰り返し、申し渡された免許停止がようやく解けて、まだ１年が経っていない。　アンドンの脳裏に取り消しの二文字がフラッシュした。　「行くも地獄、戻るも地獄。　ならばいっそ──、逃げてしまえ」　アンドンの耳に悪魔の囁きが聞こえた。　アクセルを踏む右足に力が入った。　それを察知した警官が身構える。　『ピピピピー』　甲高いホイスツルの音が上がった。　　つづく　　

心の葛藤とは裏腹に、まったく素直に警官の指示に従うアンドンに手渡されたのは、免許取消の片道切符であった。　鬼の首でも取ったように嬲る警官。　もう、なんの感情も湧かない。　マユミが去った時から、あちこちの歯車が狂いはじめたことを、ことさら思い知らされる事態に直面し、投げやりな気持ちになっていく。　空を見上げた。　すっかり秋の空になっていた。　マユミと出会った時から、季節は移り変わっていた。　タバコに火を点けた。　湿気っていたのか、燻るタバコは不味かった。　くわえタバコのまま空を見た。　煙が目に沁み、思わず堅く目を閉じた。　　つづく