作 やーすけ・梅太郎
ハードボイルドソーセージ小説 筑豊残侠伝【ちろりん村人間模様】 ムクの章”１２”
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じりじりした時間が過ぎる。 ２秒、３秒……８秒… ムクは振り上げた腕を、まだ振り下ろさない。 砂時計を凝視しているような空気が張りつめ、息をしているのがつらい。 ――Eみこはどうしている？ 私はふっと、ムクの目を見ようと視線を上げようとした。 それが臨界点であったのか、「ハッ」とムクの口から息がもれ、しなる腕を振り下ろした。 と同時に、私の左手をつかんだムクの手が、グッと外側に引っ張る形で力を入れた。 反射的に私の左腕は内側へ引く。 それは大きな動きではなく、ほんの１、２センチ程度の動きで、その時間は０，０３秒に余る、まばたきする間の出来事だった。 次の瞬間、覚悟していたムクのシッペが、私の手首に炸裂した！ と思った。 ――？？？？？！ 私の左横でうずくまる、ムクがいる。 ――なぜだ？ つづく
ムクの右手は振り下ろされた。 それは確かなことだった。 私の視界は、ムクの動きをすべて捕捉していたからだ。 ということは、ムクがうずくまっている理由は一つ。 全体重をかけ、振り抜いたシッペが、私の手首に当たらず、ムクの股間へめり込んだという、アンビリーバボーな事が起こったというわけだ。 それが証拠にムクの右腕は、股に挟まれたままになっている。 ムクの体が小刻みに震える。 そういえば振り抜いた瞬間、ムクの腰が浮き上がるのを見た。 あれがヒットの瞬間だったのか。 頭の中を整理してみる。 ムクのシッペが通過する、ほんの一瞬、ムクと私の無意識の掛け合いがあった。 それくらいの動きだったら、普通は外すことなどない。 おそらくムクは「目をつむった」のだろう。 これは私が紹介した、シッペの奥義でも触れたように『してはいけない注意事項』のうちの一つだ。 だが、この出来事はそれだけでは説明できない。 目をつむったくらいでは、こうはならない。 ムクは「目をつむった」のではなく「最初から見ていなかった」のではないか。 つまり振り下ろすと同時に、頭から体ごと突っ込んでいく『大根切り』状態だったのでは、との疑念が湧く。 『大根切り』は畑を耕す時の、鍬を入れる姿に似ている。 だが剣道でも野球のスイングでも、これを厳しく戒めている最悪の動きなのだ。 つづく
とにかく渾身の力で振り下ろしたムクのシッペは、ターゲットをかすめ、その勢いを加速させながら、開いていた股ぐらに到達した。 大根切りの腕の振り方であったため、勢いと破壊力が、この到達点（きんたま）において最大になった。 もし、ムクの背後からシッペを見ていた者がいるとしたら、股の間からニョキッと尻ぺたに張り付く、Ｖサインを見たことだろう。 それがまさかシッペの指であるとは、にわかには信じられないはずだ。 その瞬間、ムクは言い表しようのない、唸り声を上げた。 「ウブッハァァァァッ」 真正面から見ていたEみこが、甲高い悲鳴を上げた。 悲鳴はすぐに爆笑に変わり、止めようにも止まらない笑いのスパイラルへと、爆発的な進化を遂げていった。 つづく
Eみこの笑いは、瞬く間に店内全体へ伝播し、ついには笑い声で空気が沸騰した。 床にうずくまるムクは、小刻みに体を震わせ、例の連続した舌打ちを始めた。 その姿は、寒さに震える椋鳥のヒナにも似ていた。 ムクが椅子につかまり、のろのろと立ち上がる。 青ざめた顔を苦痛で歪め、腰を伸ばすことが出来ないのか、痔の病持ちの腰つきで、そろりそろりと椅子に座った。 痛そうだ。 なにしろ腰が浮き上がるほどの衝撃が、きんたまに加わったのだから堪らない。 チョッパーで鍛えた指が、悲劇を増大させた可能性も否定できないだろう。 そうしている間も、Eみこの笑い声は止まらないでいた。 苦しさのあまり座り込んでいる。 ――笑い死…。 私の脳裏にその言葉が浮かぶほどの苦しみようだ。 息ができないでいるらしい。 このままでは酸欠状態になり、Eみこの脳に重大なダメージを与えかねない。 恐るべし、きんたまシッペ！ つづく
今こうして、その時の情景を思い浮かべただけでも、胃袋辺りが痙攣を始め、新たな笑いが込み上げてくる。 あれからすでに、２０年以上の時の流れがあり、摩耗した記憶の一部であるはずなのに、あの瞬間の出来事は細部にわたって私の脳裏に焼き付いてしまった。 これはもうトラウマと言ってもいいだろう。 Eみこはその翌日、高熱を出した。 酸欠が祟ったらしい。 あの笑い地獄の苦しみは、想像を超えるものであったらしく、生死をさまよたEみこがようやく完治とき、目尻に深い笑い皺を、その重大な後遺症として残した。 その後もあの情景がフラッシュバックして再び笑いに火をつけ、Eみこを、そして私を苦しめた。 以後、このエピソードを超える笑いに、私は出会っていない。 【ムクの章終わり】 つづく
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