作　やーすけ・梅太郎
ハードボイルドソーセージ小説　筑豊残侠伝【ちろりん村人間模様】　かおすけの章”８”

白いセダンの後ろから、ハンドルで顔を支え、フロントガラス一杯にその顔を浮かび上がらせた、チョロＱばりのフォルクスワーゲンが追走する。　ヘッドライトが必要な薄暗い朝、かおすけはライトに浮かび上がる、セダンの赤いテールランプを見つめながら走った。　小刻みに揺れる赤い光に意識が吸い寄せられ、瞬きもせずに凝視し続ける。　睡魔はこの瞬間を逃さなかった。　睡魔は意識の糸を切断した。　かおすけの瞳の半分が、瞼の内側へ隠れる。　その攻撃にかおすけは抗った。　瞬間、セダンのテールランプが眩い光を放った。　　つづく

かおすけの瞳は確かにそれをとらえた。　だが、情報は正確には伝わらず、脳から危険信号が発せられたのは、ブレーキポイントを過ぎてからのことだ。　ワーゲンのタイヤが、絹を裂きような悲鳴を上げた。　衝突までのごく僅かな時間が、ビデオのコマ送りのように長く感じられ、夢の中にいるようだ。　セダンのテールがみるみる迫って来る。　「うああああ」　この時点でようやく脳が覚醒した。　反射的に目をつむった。　「きゃー」　女の子のが声をあげ、『ガシャ』と、衝突音が車内に響いた。　反動で体が前に押し出される。　　つづく　　

「ガジッ」　ハンドルと下顎が鳴った。　下の前歯が柔らかい唇に突き刺さった。　口の中に血が噴き出す。　かおすけは血が滴らないよう、顎に手を添え車外へ転がり出た。　車が血で汚れることを心配したのだ。　事故を起こせば誰でも動転するものだが、かおすけはその瞬間、驚くほど冷静な判断を下したのだ。　そして、この判断は最善だった。　追突されたセダンのドライバーが、素早く下りて破損状況を確かめ、近づいていきた。　　つづく　　　

「どうしようったんね、おたく……」　静かな声で、中年の男がかおすけに近づいた。　１００パーセント被害者である自信のような余裕のオーラが、全身から立ち登っている。　口を手で覆うかおすけの頭脳は、高速で回転し始めた。　──どんな言い訳しても、通らない。ここは相手の同情を買い、見逃してもらうのが最善の手だ。　その答えを導き出したかおすけは、強烈なインパクトで相手の余裕を吹き飛ばす手段に出た。　「すびばせん……」　と、出るがままに口から血を流し、おそらく打撲で腫れ上がり、外にめくれている傷口を、惜しげもなく相手に突きだした。　　つづく

「ウッ」　男は怯んだ。　鼻のところから口の廻り、さらには両手が血だらけのかおすけが、ボトボトと鮮血を垂らしながら謝っている。　下唇は外に向かって紫色にめくれ上がり、傷口がばっくりと割れている。　吐血でもしているような、こんな状態の人間に、車の傷がどうのこうの言える人はなかなかいない。　「車の傷は、うううっ……、どんな状態ですか？　あっううっ」　凄惨な事態にたじろぐ男を、かおすけは呻き声で追いつめる。　「車はたいしたことないから、早く病院に行きなさい」　「でも、でも、あ…がが…うううう……」　まさに迫真の演技だ。　　つづく　

セダンの助手席から、男と夫婦なのだろうか、中年の女性が下りてきた。　かおすけにとって彼女は女神になった。　血まみれの顔をしたかおすけの惨状を見るなり、ひきつった表情で男に言った。　「なにやってるの！　早く病院に行かせなさい」　狼狽した男は「い、今、そう言っていたところだよ。君、ここの事はもういいから、早く病院へ行きなさい。送らなくて大丈夫か？」と今までになかった、慈しみを感じさせる声を出した。　男は、奥さんの言葉の裏側に張り付いている『どうしてあなたは、いつも、そう気が利かないの？』といった、日常の弱みに過剰に反応したのである。　　つづく　　

男は彼の持ち合わせている優しい言葉のすべてを、かおすけに捧げた。　そしてかおすけの陳謝と感謝の言葉をもらい受けると、穏和な牧師の表情をかおすけに見せ、女性を見た。　『どうだ？　、俺って人格者だろ？』と顔がモノを言っている。　彼が敬虔なクリスチャンであるかどうかは別にして、この瞬間、男の魂は確かに、すべての罪を許したもうクリスチャンそのものであった。　　つづく

そんな男の態度が気に入らないのか、さっさとセダンに乗り込んだ。　後を追うように男は運転席のドアを開け、助手席の妻の顔色を窺いながら座り、ゆっくりとドアを閉めた。　なにごとか２、３言、話していたようだが、そのまま走り去った。　残されたかおすけは事故の主役から、夫婦の緊迫したドラマの脇役へと追いやられてしまったのである。　要領がいいのか、間抜けなのか……。　アメリカのコミック映画でも見ているような、どうにも格好のつかない立場に置かれたかおすけは、元旦の爽やかな朝の日差しを、被害者夫婦から置いてきぼりにされた、冬の冷たい路上で浴びていた。　　つづく

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