島原港からフェリーに乗って、熊本に着いた。　街のど真ん中にそびえ立つ、黒い城という印象の熊本城は、島原城と比べものにならないほど大きかった。　城内は「これこそ城だ」という造りで、細かなところまで守りの理に叶っていた。　天守閣には籠城に備えた仕掛けが沢山あり、感心させられる。　２階だったか、加藤清正の遺物が展示してあった。　熊本城に何故、加藤清正が関係あるのかと、この時無知であった私は理解できずに、Ｍボチャンに気づかれないよう小さく首を捻った。　加藤清正といえば秀吉の家臣として、大活躍する男という知識しかなく、せいぜい朝鮮出兵の際の虎退治ぐらいしか知らなかったのだ。　　つづく

熊本城は、秀吉の命を受けた清正により築城された。　清正は朝鮮出兵で得た石組み法を、熊本城で採用した。　難攻不落の城といわれる熊本城は、戦国期を生き抜いた武将ならではの造りになっている。　一度、調べてみると、その見事さに感心させられる事と思う。　天下を平定した秀吉が、どうしてこれほどの城を造らせ、清正に守らせたのか。　その理由に、九州、特に肥後地侍の気性の荒さが上げられる。　それに島津の存在が不気味であった。　秀吉の予感は、３００年後に現実のものになる。　明治１０年、西郷隆盛を担ぎ上げた薩軍が、熊本城を取り囲み、猛烈な攻撃を仕掛けた。　西南戦争の幕は、この熊本城で切って落とされたのだ。　この時、薩軍が打ち込んだ砲弾の後が、清正自慢の石垣に残っている。　石に丸い型が見て取れるが、破壊されたというほどではない。　その頑丈さが実証されたわけだ。　　つづく

熊本城を出て、路面電車に乗った。　この頃はまだ、各地で路面電車が走っていて、福岡市内や小倉、長崎でも乗ることが出来た。　路面電車はチンチン電車と呼ばれていたので、『電車の車掌さんには女がいない。そりゃそうだろ、チンチン電車』といった、戯れ歌が流行ったりもした。　そのチンチン電車に乗って、駅までの街並みを眺めた。　そろそろ金が底をつき始めた。　どうしたものか思案した。　食事はずっとチャンポンだ。　各地のチャンポンを食べ歩くつもりでいたが、その資金も心許なくなってきた。　だが、ここで帰るわけにはいかない。　疲れが溜まってきたのか、空腹が慢性化して体力を消耗してきたのか、Ｍボチャンも私も、この頃から言葉数が極端に減ってくるのであった。　　つづく

とにかく鹿児島までは行かないと、この冒険旅行が九州一周の旅にならない。　夕方になって移動を開始。　西鹿児島駅に着いた頃には、とっぷりと日が暮れていて、適当なねぐらを探すことが出来なかった。　駅構内に寝るという手も考えたが、床に寝転がるワケにはいかないだろうと思った。　（身体を横たえたい）　私もＭボチャンも無言のまま駅舎を出た。　辺りを見回すと、すぐそこに小さな建物が見えた。　近づくとそれは、コインロッカー専用の納屋で、ロッカーより少し大きくできていて、１０センチほどの高さで板張りになっていた。　右側に一人寝られる程度の隙間を見つけた私は、リュックを奥に押し込み、シュラフを広げ、そこに潜り込んだ。　Ｍボチャンはロッカーの前にあったスペースで寝るつもりらしい。　寝心地は意外に良く、私はすぐに眠りに落ちた。　　つづく

どこかでザワザワと、ざわめきが聞こえる。　波の音のようでもあるが、不規則に何かを打ち付ける、無数の音が混じっているところをみると、どうやら別の物音らしい。　雑踏のようにも聞こえる。　気忙しく足早に歩くヒールの音が、無数に重なる。　突如、妙なイントネーションの男の声が、大きく聞こえた。　私は目を覚ました。　（そうだ、駅のコインロッカーで寝ていたんだ）　シュラフのジッパーを下ろし、ゴソゴソとロッカーの隙間から這い出ると、早朝の通勤ラッシュが始まろうとしていた。　ロッカーの前には、シュラフにくるまれたＭボチャンが、ぐっすりと眠り続けている。　（もう少し寝かせてやるか）　私はリュックから歯ブラシを取り出すと、洗面所へと向かった。　　つづく

当時、駅の便所は不潔の代名詞だったが、私自身が不潔だったので、全く気にならなかった。　洗面所はコンクリート製の、大きな長方形の流しで、小学校時代を思い出す無愛想な代物だった。　便所はさほど込んでいる様子もなく、数人の出入りがある程度で、誰もが皆忙しげに用を済ませ、こんな所に長居はしたくないと言わんばかりに、足早に出て行く。　快適さへの配慮など皆無の、セメントべた塗りの室内は、湿気ったような床と、強烈な臭気混じりの空気で満ち、負のオーラを盛大に放っていた。　こんなところで顔を洗い、歯を磨く私は、傍目からどのように見えたであろうか……　　　つづく

サビが吹いた蛇口からは、やけくそのような勢いの水がモルタルに弾く。　その水を贅沢に使いながら顔を洗い、口を濯ぎ、鼻をかんだ。　その時だった。　慌ただしい足音がしたかと思うと、Mボチャンの甲高い声がした。　「なーし、起こしちゃらんやったとぉ！」　振り向くと、かなり真剣な顔で怒っている。　「なーしち言うたっちゃ、お前ぐっすり寝ちょったろ？」　「そいき、なーし起こしちゃらんやったとか、チャ」　「そげんこと言うたっちゃ、俺が起きた時、お前が起きんかっただけやろうもん。なん、そげん、はらかいちょるとか」　グッと言葉に詰まった表情の後、いきなり右手に握った歯ブラシを出し、蛇口の前に立って、蛇口を捻った。　　つづく

噴き出した水道の水が跳ね、驚いたようにMボチャンが後退る。　「この水道、メチャクチャ勢いがよかろ？」　私の思いやりのある言葉を無視し、蛇口を適量の水量に絞る。　だんだんムカついていきた私は、強い口調で「なん、そげん、はらかいちょるとかチャ！」と、怒鳴った。　Mボチャンは視線を前に向けたまま、言った。　「お前が起こしちゃらんき、俺は恥ずかしい思いをしたとぞ。　目を覚ましたら、通勤客の足がいっぱい見えたき、思わす起き上がったら、みんな笑いながら通り過ぎて行きようやないか」　「……」　険悪な間が空いた。　そして振り向きながら、決めつけるように、Mボチャンは言い切った。　「お前が起こしちゃったら、俺はあげな恥ずかしい思いをせんでよかったとたい」　　　つづく