どうやらMボチャンは、通勤ラッシュの真っ直中で、シュラフから顔だけ露出させた、ミノムシ状態で寝転がっている格好になったらしい。　考えてみれば確かに恥ずかしい。　通勤通学客から見れば、これから仕事に学校にと急いでいる時に、コインロッカーの前でのんびり寝ている男の姿は、かなり滑稽に見えたかも知れない。　さらにこの時期、コインロッカーに赤ちゃんを捨てる事件が相次いでいたので、ウィットの効いた発想をする人がMボチャンの姿を見たとしたら、どんな笑い話にしたことだろう。　考えただけで相当に恥ずかしい。　恥ずかしいぞぉ、Mボチャン。　　　つづく

Mボチャンが、どれくらい恥ずかしい思いをしたのか──　それは本人にしか分からない事であり、他人である私がいくら想像してみても、「ああ、恥ずかしかったんだろうな」と思うくらいで、むしろ笑ってしまいたくなるのが関の山だ。　そんな心の裏をも、Mボチャンは察知しているのだろう。　であるからこそ、こうやって理不尽なほどの怒りを、私に向かって露わにしているのだ。　とはいえ、私にも言い分はある。　それはそうだろう、子供じゃあるまいし、通勤ラッシュのど真ん中で、目を覚まさない方がどうかしていると思う。　「なし起こしてくれんやったとかチャ！」　水道の水を弄びながら、Mボチャンが繰り返した。　　つづく

空腹と疲労で、二人とも怒りっぽくなっていた。　「朝ぐらい、自分で起きりゃよかろうも」　思った言葉を、そのまま口にした。　沈黙が便所の中に漂った。　険悪な空気というわけではないが、互いが「ここらが限界か」と思っていることは感じ取れた。　資金も完全に底をついている。　そのまま私はコインロッカーまで戻り、シュラフを片付け、荷物をまとめた。　少し遅れて戻ってきたMボチャンも、黙々と片付け始めた。　「立ち食いうどん、食おうか」　背中にサブザックを背負い、私は言った。　Mボチャンもサンドバック状の、背負いにくそうな荷物を肩にかけ、「そやね」と軽い調子で答えた。　　つづく

床は便所と同じモルタル剥き出しで、洗い流したばかりらしく、水で濡れていた。　殺伐としたといった風情の立ち食いうどんコーナーは、駅舎の隅にあった。　釜のあるカウンターの中には、おばちゃんが一人立っていた。　テーブルには椅子がなく、あくまでも立ち食いのコンセプトを貫き通しているという、こだわりを感じさせる。　客の姿はなく、作業着姿のおじさんが一人、派手な音を立てながら、うどんをすすり上げていた。　私達はおばちゃんに向かって、うどんを注文した。　愛想の欠けらも感じさせない、見事な仏頂面のおばちゃんが、「うどん、ふたつぅ」と繰り返した。　　つづく

飾りも何も入っていない、正真正銘の素うどん入りのドンブリが、無愛想なおばちゃんの手で押し出された。　「はいぃ、１１０円」　流れるような手つきで広げた掌を、ピタリと制止させて、おばちゃんが請求する。　私にとって最後のお金である１１０円を、その掌に置いた。　瞬間、獲物を捕らえたイソギンチャクのような動きでお金を掴み、そのまま箱の中に投げ込んだ。　もう後戻りは出来ない。　出されたドンブリを手に抱え、椅子のないテーブルまで運んだ。　これを食べながら、冒険旅行はここまでにするつもりだと、Mボチャンに話そうと思う。　どうやって切り出そうかと思案しながら、割り箸を構え、うどんを見た。　白いうどんに、黒い麺が混じっている。　（なんだ？　これ）　摘んでみると、それはソバの麺だった。　（なんだ、ソバか）　ホッとした気持ちと、ちょっと得した気持ちが、私に軽い自己嫌悪を誘った。　　つづく

うどんソバを啜りながら、考えた。　どうしてソバが入っているのだろう……と。　第一に考えられるのが、釜の中で混ざり合わさった、というものだ。　他の人が頼んだソバが、茹でている間に紛れ込んだのかもしれない。　だが、すぐにそれは違うと思った。　他に頼んだ人がいないのだから、有り得ない話だ。　それに、一杯ずつタモに分けて茹でるのだから、尚更だ。　次に考えたのは、タモにソバが付いていたのでは、というものだ。　しかし、紛れ込んでいるソバの量から考えて、それも違う気がした。　ドンブリをちゃんと洗ってないのか、とも考えたが、それも量的に無理がある。　様々な考えを巡らせてはいたが、その間にも、うどんソバは着実に私の胃袋に落ち込んでいった。　　つづく

スープを飲みながら、私は言った。　「これで完全に金がなくなった。　俺、ここで引き返すぞ」　「ここで？」　「うん、このうどんでお終い。　帰りの料金しかない。　おまえ、どうする？」　「俺？　俺は……」　そう言うと、そのままＭボチャンはうどんを頬張り、ぶら下がった麺を豪快に啜り上げ、モシャモシャ租借しながら、「俺は、もう少し金があるき、宮崎を回って帰る」　怒り出すかと思っていたが、意外に爽やかな口調だったので安堵し、残りのスープに目を落とした。　短いソバがゆらゆらとたゆたっている。　私の思考が再び、ソバの謎に向かっていく。　　つづく

ソバは何故、私のうどんに紛れ込んでいるのか──　ソバの形状をよく見ると、すべてが中途半端な長さで、長くても５センチ、短い物は１センチ程度だ。　その長さだと噛む必要はなく、スープと一緒に喉を流れていく。　ドンブリの中をすべて空にし、Ｍボチャンを見た。　彼も食べ終わったらしく、荷物に手を伸ばそうとしていた。　ふと、Ｍボチャンのドンブリを見ると、わずかにスープが残っている。　出された物はすべて食べるという躾がなされている私には、心に引っ掛かる食べ方だ。　ちなみに私は出された食べ物を見た時、瞬時に自分が好きな物を見出し、それを元に平らげていく順番を決め、一番最後に好物を食べるという計画を、素早く立てる能力を身につけている。　そうすれば、腹一杯になって、最後まで食べられなくなるリスクを回避できるからだ。　厳しい躾の中で、自然と身に付けたワザである。　　つづく