食べ物を残す事は「悪」である。　私が小学校の３年になった時始まった学校給食で、徹底的に調教された。　実験的に行われたのか、その学校給食の味は、拷問に近いといえるほど激マズであった。　先生からは「食べてしまわないと、席を立ってはいけません！」と宣言されたため、１０人程の生徒が給食を前にして悪戦苦闘する姿が、毎日見られた。　タマネギとニンジンの味しかしないスープを、時間をかけて無理矢理飲み込みながら、どういうつもりでこんな不味い物を作るのか、考えたりした。　そのうち、この先、どんな貧しい人生が待ち受けているか分からないから、どんな物でも食べられるように、今から訓練されているのだと思うようになった。　　つづく

戦中戦後の食糧難から、さほど時間が経っていないその頃は、食べ物を捨てるなどバチ当たりの何ものでもなく、好き嫌いは絶対許されなかった。　私は考えた。　うどん屋のおばちゃんは見たところ、おそらく戦中派だろう。　食糧難を厭という程経験した世代だ。　なんでも勿体ないと考えるであろうことは、容易に想像できる。　そんなおばちゃんが、Ｍボチャンが飲み残したスープを見て、どう感じるだろう。　当然勿体ないと考えるだろう。　そして……、そして……、熱で消毒すれば、バイ菌も死ぬとばかりにスープ鍋の中へ──　あり得る！　あり得るし、うどんソバの謎がサラリと解けるではないか。　　　つづく

立ち食いうどん屋を出て、心なしか足早のＭボチャンに、その見解を述べた。　「うどんの中にソバが混じっちょったやんか。　俺、考えたっちゃね。　あれ、残ったスープをくさ……」　Ｍボチャンの態度が変だ。　意見を言っている私を見ようともしないで、改札口へドンドン歩いていく。　「……そげ、思わんか？」　同意を求めた私に向かって、Ｍボチャンが言った。　「しらん！」　その顔は怒っているようだった。　（何故だ）　と思ったが、怒りの方が先に立った。　「なんか！　その言い方！」　反射的に私は切符売り場へと向かった。　新飯塚までの切符を買えば、すべては終わりだ。　振り返ると、Ｍボチャンが改札口を抜けていくところだった。　宮崎方面へ向かうらしい。　金はどれくらい持ってきたのだろう。　あと１万くらいはあるのかも知れない。　それにしても、あの言い草には腹が立った。　　　つづく

朝の列車に乗り込み、一路、福岡へ向かった。　九州一周とはならなかったが、２万円で西鹿児島までたどり着いた事に、心地良い満足感があった。　列車のリズミカルな響きに、すぐに睡魔が忍び寄ってきた。　これまでの野宿と比べ、車内は天国だった。　乗っている間に目的地へと近づいていく事も、私の心をリラックスさせた。　靴を脱ぎ、サブザックの上に足を伸ばし、寝た。　深い眠りだった。　ふと気が付くと、窓の外にはオレンジ色の雲が広がっていた。　夕方、列車は福岡に入っていった。　筑豊本線に乗り換えると、いきなり荒っぽい筑豊弁が飛び交っている。　それを聞いて安堵の気持ちが湧き上がってきたことに、我ながら驚いた。　意外な発見である。　そして自宅にたどり着いた時、体重が６キロ減少していた事にも驚かされた。　　つづく

その頃、宮崎方面行きの列車に乗り込んだＭボチャンは、わずかながら後悔していた。　所持金のことだ。　実はほとんど残っていなかったのだ。　朝、私と起こすの、起こさないので言い争った気持ちの流れのまま、私がここで引き返すなどと言ったものだから、つい意地を張ったらしい。　それでも宮崎周りからの運賃は確保していたから、そのあとはどうにかなると踏んだのだ。　だが──　都城あたりで、完全に金がなくなった。　それと入れ違いに「餓え」が牙を剥き始めた。　一度牙を剥いた「餓え」は、断続的にＭボチャンの胃袋を締め上げる。　地獄の幕開けであった。　　　つづく

宮崎で一泊したことで、さらに事態は悪化していった。　私が乗った鹿児島本線と違い、Ｍボチャンが北上を続ける日豊本線は、山間をクネクネと縫って走るローカル線だ。　ディーゼルカーはのんびりとした走りで、各駅停車していく。　水を飲んで餓えをしのぐという常套手段で、なんとか堪え続けたＭボチャンだったが、そんな彼に、さらに地獄の試練が降りかかる。　ローカル線でよく見られるのが、ピクニック気分の子供がお菓子を食べながら、外の景色を眺めているという情景だ。　知らない土地をブラリと旅する時には微笑ましくもあり、なかなか絵になる姿なのだが、今のＭボチャンにはそのような精神状態ではなく、中枢神経から盛んに送られてくる、空腹を伝える信号に苦悶している真っ最中なのだ。　　つづく

ガサゴソと袋に手を入れ、お菓子を取り出しては、無造作に口に放り込む子供──　無遠慮なほどの小気味良い音を上げる咀嚼音──　それが車内中に高らかに響き渡り、と同時にスナック菓子の香ばしい香りが、辺り一面に漂いだした。　見たらいかん！　嗅いだらいかん！　思えば思う程、神経は研ぎ澄まされていく。　鼻腔を刺激する、なんとも残酷なお菓子の香り──　絶え間なく噛み砕く音、それに時折ひときわ高く混じる、前歯で噛み割るクリアな音──　条件反射の成せるワザか、噛み割る音が上がると、Ｍボチャンの視線は、子供の口元に瞬時にロックオンする。　その度に襲う自己嫌悪が、Ｍボチャンの精神を苛む。　地獄であった。　　　つづく

空っぽの胃袋を容赦なく締め上げる空腹感は、Ｍボチャンの正常な判断力を、まるで鰹節のようにみるみる削り取っていく。　剥き出しになる野生──　獲物を狙う野獣の目が、鳶色をしたＭボチャンの瞳の奥で目を覚ました。　それはジャガーの目──　あるいはコンドルの瞳──　そしてハイエナの執拗な眼差しを併せ持っていた。　狙いを定める視線のその先には、子供が小さな手で大事に抱えるお菓子の袋があった。　先ほどのスナック菓子はすでに平らげられ、新たに開けられた袋からは、ビスケットの臭いが立ち登っていた。　ひとつ、またひとつと口に運ばれるビスケット……　その度に低く、そして不気味な唸り声を上げる、野獣と化したＭボチャンの胃袋……　　　　つづく