Ｍボチャンが放つ、ただならぬ気配は、無垢な子供の心を不安定なものにした。　だが、Ｍボチャンの存在自体には気づいてはいないらしく、視線を向けることはない。　（なんか、変だな）　そんな表情を作りながら、ビスケットを頬張る子供の口元から、噛み砕かれた断片がこぼれ落ちる。　また地の底から湧き上がるような、不気味な唸り声が響く。　さらにビスケットの袋に手を突っ込み、もう一枚口に運ぼうとしたその時、どうしたことか子供は、しっかりと摘んだはずのビスケットをポロリと落としてしまった。　Ｍボチャンの鋭い眼光が、いぶした銀色に光った。　　つづく

口元から転げ落ちたビスケットは、あちこちにぶつかり、飛び跳ねながら座席に落ち、床をコロコロと走った後、力尽きたようにパタリと倒れて止まった。　そこはＭボチャンからみて、およそ３メートルの距離だった。　２、３歩足を踏み出すだけで、すぐにもたどり着ける所に、見るからにヨダレが垂れそうなビスケットが転がっている。　Ｍボチャンの内的葛藤の幕が切って落とされた。　（食べたい。拾って食べたい。拾え！　そして素早く口に入れろ！　噛め！　租借しろ！　胃袋に放り込め！）　Ｍボチャンの中の獣が、唾液を垂らして吠える。　　つづく

思わず踏み出そうとする足を、天使の羽根をはやしたＭボチャンの中の理性君が引き留める。　（落ちてる物を拾って食べてはだめですよ〜。食べたいでしょうが、拾って食べてはだめなのよ〜。それは、それは、恥ずかしいことなのよ〜。落ちてるお菓子を、じっと見つめるのもいけません。気づかぬ振りしていましょうね〜）　いくら腹がへっているとはいえ、さすがに拾って食べるには抵抗がある。　抵抗があるが、非常に気になる存在となったビスケットに背を向け、（武士は食わねど、高楊枝）と痩せ我慢を決め込む事にした。　そうはしたものの、後頭部の全神経はビスケットに集中してやまない。　つらく苦しい時間が、じりじりと流れていくのであった。　　　つづく

そうこうしている間に列車は、どこかの駅に止まった。　まばらだった車内の乗客が乗り降りし、お菓子を食べていた親子はそこで下車した。　Ｍボチャンはハッとした。　乗客が入れ替わったということは、床に落ちたビスケットの由来を知るものは、誰もいなくなったことになる。　Ｍボチャンはチラリとビスケットを見た。　ビスケットは転がってきた時の姿のまま、じっとしていた。　それは誰かを、そして何かを待っているようにも見えた。　ビスケットに背中を向けたまま、Ｍボチャンは深い思案にくれた。　このまま、ビスケットの存在を忘れてしまうことが、精神衛生上一番良いのであろうが、それは今のＭボチャンにとっては至難の業であった。　ビスケット存在を忘れる事ができないとなれば、次の選択肢はひとつ──だ。　　　つづく

Ｍボチャンの気持ちは『ビスケットを拾う』に傾き、その行為が果たして可能であるか考え始めた。　振り向き様にビスケットに近づき、素早く拾って元の位置に戻り、そのまま、素知らぬ振りして口の中に入れるというのが、一番オーソドックスな手順だ。　だがこれでは動機付けに不備がある。　いきなり振り向いて、狙いを定めたようにビスケットを拾うと、通常の行動としては不自然だろう。　最初からビスケットの存在を、Ｍボチャンが知っていると分かってしまうからだ。　そうなると、Ｍボチャンの行動は他人の目から見ると、ただの拾い食い男としか映らない。　それではあまりにも自尊心に傷か付き過ぎるではないかと、Ｍボチャンは思うのだった。　　つづく

Mぼちゃんは、こう考えた。　床に落ちているビスケットを、食べ物としてではなく、ゴミが落ちていると考えたらどうだろう……　と。　そうすれば、たとえビスケットを拾う所を人に見られても、床に落ちているゴミを片付けているのだと、Ｍボチャン自身が思ってさえいれば自尊心も傷つかず、堂々とビスケットを手にすることが出来る。　その後、ポケットにでもしまっておいて、指先で小分けし、頃合いを見計らいながら、少しずつ口に運ぶのである。　『パーフェクト……、すべてがパーフェクト』　Ｍボチャンはこの作戦の完璧さに酔いしれた。　　つづく

チラリとビスケットに目をやった。　ビスケットはまだ、子供が取り落として転がってきた時の姿のまま、そこにあった。　だが、躰がどうしても動いてくれない。　ホンのさっき、ビスケットを拾うと心に決めたＭボチャンではあったが、それを引き止めるブレーキがどこかで掛かっている。　そのブレーキの正体を、Ｍボチャン自身も分かっていた。　それはビスケットを拾う目的が、ゴミを片付ける事なのだと思い込もうとしても、食べる事が目的である事実からは、決して逃れることは出来ない。　拾い食い……　子供の頃、これを友達に見られたらイジメの対象になることは間違いなかった。　囃し言葉までチャンとあったぐらいだから、拾い食いはタブーの王道であったのだろう。　『ひーらーぼーがぁ　ひーろーてぇ　おっかちゃんにみーせーてぇ　くーたー　くーたぁ』　というものがそれで、これを散々に繰り返しながら囃していくのだ。　この歌詞の中で残酷なところは、母親に承諾を得て拾い食いをしたという部分だ。　拾い食いした子の、家庭の家計にまで立ち入っているのである。　内政干渉の最たるものだろう。　　つづく

この時のＭボチャンの内的葛藤は、後のＭボチャンの食べ物に対する執着に、多大なる影響を与えることになった。　数年後、私は軽食喫茶をオープンした。　店には様々な個性の持ち主（この件に関しては、筑豊残侠伝を参考にして欲しい。　イメージを具体化できるはずだ）が毎日集い、華やかな賑わいを見せた。　　Ｍボチャンは毎日カウンターに座り、人を笑わせる作業に没頭した。　人を笑わせるには膨大なエネルギーが必要になるらしく、Ｍボチャンはやたら腹をへらしていた。　つねに体を張る芸風のＭボチャンにとって、空腹は大敵だ。　エネルギーを補充する食料が必要になった。　注文をすれば、なんの問題もなく食事が出来るのだが、お金が掛かる。　それは厭らしい。　様々な試行錯誤の末Ｍボチャンは、問題の食料を、なんと無料で調達するワザを身につけてしまった。　　つづく