Ｍボチャンが編みだした技──　それは顔見知りの客がオーダーした物を『ちょっと一口』と言いながら、強引にスプーンを取り上げ、自分の胃袋を満たすというものだ。　知り合いが５人いれば、５種類のメニューを楽しむことが出来る大技である。　中にはそれをさせまいと抵抗する者もいたりするのだが、「おかしいちゃ、お前そげなこと、おかしい、一口だけでよかとちゃ、おかしい、たった一口を食べさせんとか、人が笑う──」とか御託を並べながら、スプーンをもぎ取り、口一杯の一口を味わうのである。　もし、この図々しさを早くに身につけ、ビスケットを持った子供に対し、それを少しでも行使できたなら、２、３枚のビスケットは貰えたかもしれず、落ちたビスケットを拾うかどうかなどで思い悩むことはなかったであろう。　　つづく

思えばＭボチャンは、ビスケットに背を向けたまま、かなりの時間、心の葛藤を続けていた。　そしてついに、２つの案が浮上、選択を迫られていた。　１つはこのまま、折尾駅で列車を乗り換えるまで痩せ我慢をし、プライドを守る。　そしてもう１つは、落ちているゴミを片付ける、心ある人間を演出し、後でゆっくりと胃袋に納める。　そして、これから下されるであろうＭボチャンの判断は、後者の成功率の高さに託されているともいえた。　（きっと、やれる！　俺ならきっと、上手くやれる！）　Ｍボチャンは決断した。　まるでストリートダンサーのようなステップで、躰を１８０度回転させた。　ビスケットのある位置に、吊革に掴まった女性客が立っていた。　　つづく

女性はＭボチャンに背中を向けた姿勢で、肩幅よりやや広めに足を開き、列車の揺れに備えている。　Ｍボチャンの視線が女性の尻、そして太股、ふくらはぎへと下りていく。　もちろんＭボチャンにやましい気持ちなど、微塵もない。　あえてやましいと言えば、子供の落としたビスケットを拾って食べようとしている事だけだ。　視線が足首へ、そして革靴まで達した。　刹那、脳天から肛門に向けて、焼け火箸を叩き込まれたような衝撃が貫いた。　目の前の情景が色あせ、モノクロの世界が広がる。　後悔というどす黒いコールタールが、頭の中を満たし、ゆらゆら揺れる。　早く決断していれば、すべての計画は上手くいったはずだ。　拾い食いを恥ずかしいと思うプライドなど、早くかなぐり捨てるべきだったのだ。　ビスケットは……踏み潰され、小さな菓子屑になっていた。　Ｍボチャンが長々と組み上げてきた作戦は、この瞬間、ビスケット同様女性の股の下で粉々に砕けてしまったのである。　　つづく

岩肌に砕け散る、日本海の荒波の如く、Ｍボチャンの後悔の念は、湧いては消え湧いては消えし、彼の心を乱した。　その悔しさは折尾駅で筑豊線に乗り換えるまで続き、その後のＭボチャンの精神構造に、少なからず影響したという。　思い立ったが吉日とばかりに、短絡的な行動をとるＭボチャンは、こうして誕生したといえるかもしれない。　顕著な例として、他人の食べ物を渡り鳥のように食べ歩く事は、先程述べた。　そして女性に対しても、その傾向が見られるようになった。　それは、このビスケット事件と似た構造を持つ、「気が付けば、俺だけ童貞ショック」が引き金となる。　　つづく

高校を卒業して２年目の同窓会ともなると、大人への脱皮にそれぞれかなりの差が出てくる。　背伸びして、いかに自分が大人であるかを、言葉の端々に散りばめ、結局は内面の未熟さを露呈してしまう者や、学生気分がそのまま続いていて、世間の汚れを知らない分、話に深みのない者まで多彩だ。　Ｍボチャンがこの時、どこまで大人への脱皮を果たしていたかは分からないが、女性経験が浅いのは確かだった。　それ自体は大した問題ではないのだが、Ｍボチャンが同級生に対し、皆も自分と同程度の経験だろうと、勝手に思い込んでいたところに、彼にとって重大な問題が持ち上がる要素があった。　　つづく

男ばかりの、気安い雰囲気になると、誰ともなく性情報の交換を始めるのが、この年代の特徴である。　その時、数人の同級生が集まっていた。　話題は『初体験はいつか』がテーマだったという。　次々に証される同級生の不純な経験を訊きながら、Ｍボチャンは驚きと羨望を複雑に絡ませ感情を露わにしていく。　「お前達、真面目な顔をして、そげなことしよったんか！　そげなことしたらいかんち、学生証に書いちゃったろうが！　誰と！　誰としたんか！　あの時の彼女か！　ね？　ねちゃ？！」　その時、Ｍボチャンが思い立ったのは、この中で早熟な経験をした人間の把握であった。　──まさか自分だけがオコチャマだった？　（いや、そんなはずはない）　Ｍボチャンには自信があった。　ここには不純異性交遊など、絶対にしないと言い切れるＳカイクンという優等生がいたからだ。　　つづく

スポーツマンにして頭脳明晰、爽やかな笑顔に、柔らかい響きを含む声──　ＭボチャンにとってＳカイクンは、理想とする男子高校生であった。　高校時代に、Ｓカイクンには付き合っていた彼女がいた。　このカップルをＭボチャンは、清潔感が一面に漂うお似合いのカップルだと、つねづね羨ましくも好ましく感じていた。　微笑みあう二人の間には春風がそよぎ、その遙か向こうに、陽光に輝く青い山脈が見えるようだった。　『高校生の男女交際は、こうでなければならん』　Ｍボチャンは軽井沢のテニスコートが似合いそうなこの二人を、自分の考える男女交際の理想像として、陰に日なたに見守っていたのであった。　　つづく

衝撃の告白の連続。　Ｍボチャンが思いもよらなかった──　いや、思っていても決して実行しないでいた行為を、程度の差はあれ、かつてのこのクラスメイト達は何食わぬ顔で行っていたのだ。　（なんということだ！　そんなことをしていながら、よくも俺の顔がまともに見られたな！　くそ！　お前もか！　あの彼女か！　あの彼女とそげなことをしたとか！　なしか？　なし、それならそうと、その時に教えてくれんやったんか？　そうと知っていれば俺だって……　俺だって……　いや、Ｓカイクンがいる！　俺にはＳカイクンという、理想の高校生だった男がいるではないか）　Ｍボチャンは一縷の望みを、ニコニコしながら衝撃の告白を訊いているＳカイクンに託した。　　つづく