彼女が自分にゾッコンと信じて疑わなかったMボチャンだったが、実は彼女はもう一人の男とMボチャンを両天秤にかけ、というより、男が横恋慕してアタックをかけてきたらしい。　人生設計に真剣な彼女は、「もしも、私が結婚するならば──」という物差しで、Mボチャンと男を見比べた。　二股といわれようと、一時の感情に流されるような生き方はしたくない、ということだろう。　これはもう、立派な大人の女性の発想だ。　こういった部分に、二十歳前後の年代に現れる、男と女の差異が見て取れる。　いつまでも少年の気分を捨てきれず、夢の話ばかりで現実を見ようとせず、極楽とんぼを決め込むのが、この年代の大多数の男だ。　夢を夢として現実を見つめようとする男と、いつか眠れる自分のもの凄い才能に誰かが気づいて、世に出してくれないかななどと、他力本願の成就をひたすら願い続ける男とに別れてくる。　彼女が天秤にかけている二人が、ちょうどこの両タイプなのであった。　　　つづく

付き合いはすれど、彼女の人生まで背負うつもりなど、さらさら無いMボチャンにとって、人生というスパンで恋愛を考えている彼女の女心など、全く理解できない思考であった。　「お互い好いちょっちゃき、それでいいや〜ん」などと、井上陽水の『断絶』にモロ影響された思考回路で押し通そうとする。　そんなMボチャンを覚めた目で観察する彼女が、ついに決断した。　「色々考えたけど、さようならします」と言ったかどうか知らないが、彼女は仕事が出来そうな横恋慕の男を選んだのだ。　Mボチャンにとって、まさに青天の霹靂であった。　　　つづく

この出来事について、一概にMボチャンの落ち度を責めることはできない。　二十歳そこそこの男が、語る自分の夢を持ってないなど、そんなつまらない人間に人を惹き付ける魅力があるとは思えない。　いち早く社会に適応して、会社人間になってしまった男のどこがいいのだろう。　その点から言えば、Mボチャンの人間的魅力に軍配を上げてもいいだろう。　この破局はどう見ても、二股をかけた彼女と横恋慕した男が悪い。　だから、このままMボチャンが黙って、傷心な男を演じてさえいれば同情票が集まり、散ってしまった女子大生が、前にも増して群がり来ること請け合いであった。　手首に包帯でも巻いて、コートの襟を立てるMボチャン……　母性本能をくすぐる、暗い影を秘めた鳶色の瞳……　哀愁さえ感じさせる独特のすきっ歯から、静かに洩れ出る、深く吸い込んだ煙草の紫煙……　Mボチャンの腕の見せ所であった。　　つづく

男と女の腹芸は、冷静さを欠いた方が負けだ。　Mボチャンは負けた。　みっともない程に狼狽え、右往左往してしまった。　果ては失恋の原因を、あろうことか他人のせいにすることで、自分を慰めようとした。　Mボチャンにしてみれば、「どうして誰も教えてくれなかったのか」という気持ちで一杯なのだろう。　さらに「みんな知っていたくせに、黙ったまま楽しみよったに違いない」と考え、そして「みんなで俺のこと、笑い者にしちょった」と被害妄想意外の、なにものでもない結論に達したのである。　実はMボチャンの恋愛話など、誰も興味はなかったので、Mボチャンが騒ぎ立てさえしなければ、一連の事実が周囲の者に知れ渡ることはなかったはずだ。　恋愛の未熟さが産んだ悲劇だった。　　つづく

完全な被害妄想に陥ったMボチャンは、店にやって来るなり、「笑いよったろが！　お前達、みんなで笑いよったね！　ねっ！　笑いよったろがちゃ！」と誰彼なしにカラむのである。　事情が全く分からない大多数の者は「えっ？　えっ？」と面食らうばかりだ。　だがMボチャンは、その態度が気に入らないらしく、「お前達、知っちょったね！　知っちょって黙っちょったね！」と責め立てる。　あらましを知っている者が、「実はしかじかなことがありまして」と小声で説明を始めることにより、次第に事件の全貌が明らかにされ、ようやく皆が事態を把握できた頃、毒づくだけ毒づいていたＭボチャンは、まだ気持ちが収まらないのか、飛び出るように店から出て行った。　──『Ｍボチャン、二股かけられる』の情報は、Ｍボチャンの乱心の甲斐あって、たちまちの内に巷に流れ、『笑いよったね事件』として、人々の記憶に鮮明に残ることになるのである。　　つづく

『笑いよったね事件』はＭボチャンに、大きな心の傷と多大なる教訓を与えた。　Ｍボチャンは思った。　「恋愛は秘め事……　秘密が一番！　今回の事件の反省点は、付き合っていることを公開したところにある。　女子大生蜘蛛の子散らしい状態を招き、他人の女に興味を示す横恋慕の男を引き寄せた。　いわば鰹の一本釣りみたいに、豪快に釣り上げたところを見せてしまったからいけないのだ。　これからは巻き網漁船のように、大量の獲物を静かに傍に引き寄せておき、誰にも気づかれないように、そーっとピックアップしていくことだ。　リリースする時には、やはりそーっと逃がしてやれば、他の獲物を散らしてしまうことは避けられる。　これっきゃないでしょう」　こうして高校時代の遅れを懸命に取り戻そうと飲屋街を奔走する、遅咲きのＭボチャンが誕生したのであった。　　つづく

多彩なＭボチャンの才能の中で、群を抜いていたのが絵の才能であった。　絵とは言っても絵画ではなく、イラストだ。　時代はファンシー・グッズを求め始めていた。　戦後の動乱期から学生運動までの大波が、とりあえずは静まり、戦争を知らない子供達が大人になる時が来た。　小難しいイデオロギーや哲学で理論武装しなくても、馬鹿にされない時代に突入したのだ。　世間は個人の感性を重視し始めた。　それに呼応するかのように、遊び心を持った商品が次々と生み出されていく。　そんな流れに素早く反応したのが、アンアン、ノンノンの世界に精通する、サブ・カルチャー一色の女性達であった。　ファンシー・ショップは隆盛を極めだした。　こうしてＭボチャンの才能が活かされるチャンスは、ついに巡ってくる。　　つづく